「おめでとうございます」

 先日、シドニーで開かれたあるイベントで、1985年公開のアメリカ映画 "Mishima: A Life in Four Chapters" が上映されるということで、見に行ってきました。

 言わずと知れた三島由紀夫の生涯と壮絶な最期を、彼の作品と重ね合わせながら4部構成で描いた作品で、錚々たる日本人俳優たちが全編日本語で熱演する見応えのある映画でした。エクゼクティブプロデューサーはあのフランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカス、監督・脚本は「タクシードライバー」も書いたポール・シュレイダー、カンヌ映画祭でも受賞しているほどの作品でありながら、様々な事情で日本未公開となってしまい、なんとももったいない話です。出演者やスタッフの落胆はさぞかし大きかっただろうなと気の毒に思えてきます。

 この作品で三島を演じたのは、往年の名優、緒形拳さんでした。

 85年公開の作品ですから緒形さんは47歳頃でしょうか。俳優として脂の乗り切ったあの頃の緒形さんの姿を久しぶりに拝見して、ため息が出ました。気迫と熱意がマグマのようにふつふつと、微動だにしない表情や静かな声音にすらたぎっている力強さ。それでいて、にんまり笑った顔の子どものような屈託のなさ。一人のキャラクターの中にいろんな動物が共存していて、時折その中の一匹が、体温や匂いさえ感じさせながら顔を出すような、予測不可能な独特の存在感に、改めて敬意を抱きました。

 

 緒形拳さんにその昔、年賀状を頂いたことがあります。

 大河ドラマや映画などで彼の演技力と存在感に圧倒され、その頃から密かに役者を志していた僕は、何度かファンレターを出していました。きっと「緒形さんのような俳優になりたいです」とか何とか書いたんだと思います。

 ある年の正月、独特の豪快な筆跡で、うちの住所と僕の名前が書かれた年賀状が届きました。その裏には、ごくシンプルに、

「おめでとうございます 緒形拳」

 とだけ書いてありました。

 どこの馬の骨ともわからない中学生のファンにわざわざ年賀状を下さったことも感激ですが、ご自宅の住所も電話番号もちゃんと明記してありました。畏れ多いやら嬉しいやらで、ずいぶん取り乱した覚えがあります。

 多分お礼の手紙は出したと思うのですが、会いに行く勇気もなく、いつかお会いできたらと思っているうちに、10年前、緒形さんは惜しまれつつ急逝されました。

 その年賀状は今も額に入れて飾ってあります。「あけましておめでとう」ではなく、ただ「おめでとうございます」とだけ書いてあるハガキは、ささやかでも何か嬉しいことがあった時や、役者の仕事が取れた時など、その時々にお褒めの言葉を下さるようで、いつもさりげなく見守ってくださっています。

 

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 嬉しいご報告があります。

 あるアメリカのテレビシリーズに、今までになく大きな役をもらって出演することになりました。来年1月から撮影のためカナダのバンクーバーに滞在する予定です。

 この仕事が決まるまでのずいぶん長い間、僕の頭の中では、「潮時」という言葉がくり返しくり返し、響き続けていました。

 自分で監督・主演した短編 "RICEBALLS" があちこちの映画祭に呼ばれ、たくさんの出会いにも恵まれて、周りからはさぞかし華々しく見えたでしょうが、俳優の仕事は鳴かず飛ばず、オーディションにも落ちまくり、やはりいい加減観念して自分の限界や身の程を思い知るべきなんじゃないかと思ったりもしていました。

 そんな時にふっと訪れたこのチャンスにも、「潮時かもなー」という思いが頭から離れず、これがダメだったら今度こそ決定打だ、と、有終の美というかイタチの最後っ屁というか、妙に開き直った気持ちで臨んだオーディションでした。

 それがどういう訳かトントン拍子に話が進み、気がついたら役を頂けることになったのです。

 役を勝ち取った、とか、努力が実を結んだ、というような、勝利の喜びみたいなものは不思議と湧いて来ませんでした。ただひたすら胸に沁みたのは、僕自身が醸し出す雰囲気やら見てくれやらがぴったりの役に、ようやく巡り会えたんだということ、そして誰かに必要だと思ってもらえているという有難さでした。

 今までセコセコ焦って浮いたり沈んだり、不安がったり悲観したりしていたのは一体何だったんだろうと思いました。自分一人の力ではどうにもならない流れの中でも、僕というコマがぴったり当てはまる場所は、うまい具合にちゃんと用意されていたのです。

 続けていてよかった、と思いました。

 「潮時」という気の迷いに負けて辞めてしまっていたら、きっとありつけなかったはずの喜びでした。

 

 「おめでとうございます」

 

 緒形拳さんも額の中から、今度ばかりはあの満面の笑みで、お褒めの言葉をかけてくださっているような気がします。

 

  

どうっちゅうことあるかい!

 ご無沙汰しています。みなさんいかがお過ごしですか。

 いろいろなご報告ができるはずだったスペイン旅行ですが、思いもよらない出来事のために、たった2日で終わってしまいました。

 

 「お父さんが、さっき亡くなりました」

 

 カタールのドーハからマドリッドに向かう機中で、機内wifiを使ってメールをチェックしたら、まず飛び込んできたのが姉からの知らせでした。

 身体中の空気が一瞬にして抜け去ったような気がしました。

 その日の前日に腸閉塞を起こして病院に運ばれ、日本時間の翌朝、息を引き取ったということです。あまりに急な展開で、本人ですら予想だにしていなかったに違いありません。

 しかしこっちこそ、よりにもよって飛行機の中で親の最期を知らされるとは、まさに想定外のことでした。

 呆然としながらも、なんとかして早く日本に戻らなければ、とあれこれ頭を巡らせるのですが、その思いとは裏腹に身体はどんどん日本から物理的に引き離されていきます。マドリッドに降り立った後も預け入れ荷物はそのままバレンシアまで運ばれてしまうので、とりあえず最終目的地まで行くしかありません。今思い出しても怖気が振るうほどの無力感でした。

 

 マドリッドの空港から、実家に電話しました。

 覚悟は決めていたから、と母は思いの外しっかりしていました。弔問客やら親戚やら葬儀の段取りやらでごった返しているようで、泣いている場合じゃない、という気負いと決意が声音から感じ取れました。

 どのみちお通夜にも葬式にも間に合わないだろうから、無理して帰ってこなくていい。そっちでしっかり務めを果たしてきなさい。

 姉と同じことを母も言いました。

 務めというほど大それた用事でもなく、こんな一大事に比べたら屁でもないようなものですが、やはりどう頑張っても葬儀に間に合う飛行機は取れそうにありませんでした。

 雲の上を歩くような心もとない足取りでバレンシアの空港に降り立った後も、やっとたどり着いたといういつもの安堵感はなく、いつまでたっても覚めない夢の中にいるような白々した虚しさばかりが心にありました。

 

 父が末期の直腸癌と診断されたのは、一昨年の9月でした。

 82歳という自分の年齢を考えると、今さら無駄に抗癌剤治療で体力を衰えさせるようなことはしたくない。癌を患った友人や知り合いがこれまで何人も、強い薬の副作用で苦しみながら病み衰えていく姿を見てきたが、自分は自分の免疫力を信じて最期までやりたいことをやってから死にたい。

 父はそう宣言して、人工肛門の手術だけ済ませると、さっさと自宅に帰って元の生活に戻りました。言い出したら頑として意志を曲げない頑固者の親父らしいと、家族全員が納得する決断でした。

 高校の体育教師だった父は、自分の体力の維持に死ぬまで執念を燃やした人で、毎朝4時半に起きてストレッチや筋トレを続ける生活を続けていたせいか、病院にまでダンベルを持ち込んで周りの度肝を抜きました。姉の話では、手術の傷がまだふさがらない頃に腹筋運動をしようとして姉が必死に止めたんだそうです。

 退院後、母の看病と気遣いに支えられて、父は次第に以前の元気を取り戻していきました。

 もう何十年も続けているフランス語とスペイン語の勉強、そして定年後のフランス留学時代に病みつきになったペタンクという球技に再び精を出すうちに、気力も食欲も以前と変わらないほどにまでなりました。最初の診断で余命半年から1年と言われていたにもかかわらず、めきめき復活した父の元気を見て、もしかしたら癌なんてしばらくは鳴りを潜めて、このままぼちぼちやっていけるんじゃないかと周りも思い始めていたくらいです。

 亡くなる1週間前にたまたま僕が一時帰国をした時も、相変わらず元気でした。僕がスペインに行くと言うと、ガイドブックやら地図やら会話集やらをかき集めてきて、何度か訪れたスペインの話を楽しそうにしていました。僕が帰った後入れ違いに、長野に嫁いでいる姉が家族を連れて帰省した時も、人が集まる時によく作る自慢のパエリヤを大鍋いっぱい作って振舞ったんだそうです。全くいつもと変わらない、いつもの父の姿でした。

 帰り際空港に向かう時はいつも、父が車で最寄りの駅まで送ってくれました。本当にいつも通り、じゃ元気で頑張って、とお互い声をかけ、握手をして車を降り、Uターンする父の車に手を振って別れたのも全くいつもと同じでした。

 いつかはこれが最後になる日が来る、という予感は毎回心のどこかにあったものの、結局何の準備もできていなかったんだなと、最後の姿を思い出すたびにつくづく思い知らされるのです。

 

 僕は見知らぬ街に来ると必ず、地図もろくに見ずにあてずっぽうに歩きまわります。

 路地や裏道が大好きで、迷子になったらなったでそれも心楽しく、知らない場所でしか出会えない驚きや発見に我を忘れるのが旅の醍醐味だと思う性分です。

 バレンシアはその点、うってつけの街でした。思いがけないところに、何やら興味をそそる裏道がヒョイと現れて、また別の路地へと導いてくれます。

 映画祭のイベントを抜け出して、市の中心部からかなり離れた名前も知らない街の一角をさまよいました。歩いても歩いても、まるで迷路の中に迷い込んだかのように続いていく裏道に、人の暮らしの気配がさりげなく見え隠れしています。そのうち猛烈な人懐かしさと共に、ここはいったいどこなんだろう、こんなところで俺は何してるんだろうという不可解さが心に広がっていきました。

 そして、こういう放浪癖は、実は親父譲りなのかもしれない、と思い至ったのです。

 定年後、母を日本に置いてきぼりにしてフランスに行く、と言い出した時も、母に言わせると実は行き先も決めずに放浪の旅をするつもりだったようです。空港で母に大泣きされて改心し、きちんと留学先を決めて勉強することに落ち着いたそうですが、行き当たりばったり、あえて他人が歩かない道を選んでほっつき歩く性癖は、今になって思えば僕と同じです。

 他人から強制されたり、偉そうな態度に出くわした時、無性に反発したがるへそ曲がりなところも、全く同じです。これが世間一般のやり方だから、と当然のごとく押し付けられると、従う気持ちは即座に消え、あえて違うことをしたくなるあまのじゃくが、父にも僕にも住んでいるようです。

 まだ僕が子供の頃、父は国勢調査の書類を、NHK講座で習いたてのハングル文字で書いて出したことがあります。過去に在日韓国人の生徒を受け持ち、彼らの受けた差別に憤っていたからかもしれません。出来上がった書類を僕に見せて、「差別したかったらしたらええねん」と自慢気に笑った顔を今でも思い出します。

 そんな父の口癖は、「どうっちゅうことあるかい!」でした。

 敬愛する宮本輝さんの小説「流転の海」シリーズの主人公、松坂熊吾の台詞に「何がどうなろうとも、どうということはありゃせん」というのがあります。うちの父はもちろんあの松坂熊吾ほど豪放磊落な大人物ではありませんでしたが、それでもどこか共通するものを感じました。

 父は世間体とかお体裁とか、世の中の「常識」とか、それにまつわる諸々のプレッシャーとかに対しては、常に「どうっちゅうことあるかい!」で済ましてきた人でした。父には父なりに思い悩むこともあったはずですし、気分屋が過ぎて母をほとほと困らせたものですが、しかしそういう変わり者の父だったからこそ、息子の自分がこんな好き勝手な生き方をさせてもらえているのでしょう。

 大学を出て就職をせずアメリカに行くと言い出した時も、オーストラリアで定職を捨てて俳優になると宣言した時も、父は反対しませんでした。先行き不安な俳優業を20年近く、危なっかしくも続けている息子のことを、密かに自慢に思ってもくれていたようです。

 その思いに報いるだけの生き方を、自分はできているんだろうか。

 風が冷たくなってきた夕暮れの路地裏を歩きながら、考えました。

 多分できていないような気がします。申し訳ないけど、自分でも不甲斐ないほど頼りなくて、とてもご期待に添えるような努力はできてません。父のように「どうっちゅうことあるかい」と開き直れるほどの図太さは、この歳になっても持てずにいます。

 こういう踏み込んだ会話は父も自分もお互い照れ臭くて、結局する機会もないまま時が過ぎ、父は逝ってしまいました。口には出さずとも、ずっと見守り、応援してくれていたという確信だけがこちらの胸に残っています。

 知る人もいない全くの異郷でたったひとり、裏道を辿って歩きながら、父がいなくなった今になって、これまでになく父の存在を強く感じていました。

 夕焼けが身震いするほど綺麗でした。

 

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 日本に戻ったのは、葬儀が済んだ次の日でした。

 ごく身内だけでひっそりと、というのが生前からの父の言いつけでしたが、ごく限られた人にしか連絡しなかったにもかかわらず、ニュースは瞬く間に広まって、かつての同僚や教え子、ペタンク仲間などが一斉に集まって別れを惜しんでくれました。結構外面が良かったみたいです。

 父の意向を尊重して、世間一般の定番を無視した無宗教の式になりました。お通夜ではこれも父の遺言通り、参列者一人一人が父の思い出話を一言ずつ語ることになり、義理やらしがらみやらで来ている人がいない分、実に心のこもった別れができたんだそうです。父が想定していた葬式よりは規模が大きくはなりましたが、なんとも父らしい、ユニークなものになったようでした。

 そこに自分がいなかったのが残念ですが、言っても詮無いことです。長男のくせに喪主にもなれず、骨も拾えず、申し訳ない気持ちで戻った僕に、薄紫のリボンのかかった写真の中から父は、

 「どうっちゅうことあるかい!」

 と、ニヤニヤ笑いながらどやしつけているような気がしました。

 

 

行ってきます

  2018年が始まってあっという間にもう2月も半ば。皆さんいかがお過ごしですか。
 風光明媚な観光名所ブルーマウンテンに場所を移しての野外シェークスピア劇場も、お陰様でつつがなく終了し、その後もいろいろと、オーディションに落ちたり極寒の日本にほんの一瞬帰ったりと、何だかんだとあったんですが、ご報告しそびれてました。
 今年こそはこの怠け癖、何とかしたいと思います。

 さて、いささかイタチの最後っ屁的に土壇場でこれを書いているのは、実は飛行機の中なんです。カタールのドーハを経由して、スペインのバレンシアまでこれからほぼ1日以上、機中の人になることになります。
 バレンシアで開かれる子供映画祭 MICE Film Festival に、僕の短編 RICEBALLS が招待されているので、こんな機会でも無けりゃ行けないだろうと思い切って出かけることにしました。ヨーロッパに行くのは十数年ぶりのこと、かなり楽しみにしています。
 しかし何分にも南の果てオーストラリア、どこへ行くにも時間がかかります。特にヨーロッパとなるとホントに1日がかり、これでも短縮された方なんでしょうが、北半球にお住まいの皆さんが羨ましいほどの遠さです。
  これからドーハまで約14時間。時間を逆算して、何とかスペイン時間に身体を調整しながら飛んでいきます。
 現地でもなるべく頻繁にご報告するつもりです。どうぞお楽しみに。

 では、行ってきます!

鳥ニモ負ケズ

 ご無沙汰しています。みなさんお元気ですか。

 人生で21回目となる真夏のクリスマスもごく普通に過ぎ、またまた野外劇のステージに戻りました。演目はシェークスピアの Measure for Measure と、イタリアの古典喜劇 The Servant of Two Masters の2つを日替わりで演じています。

 12月の終わりまでは、Bella Vista という、シドニーの中心部から30キロほど北西部にある Bella Vista Farm というところが会場になっています。ファームというからにはさぞかしのどかな場所かと思うでしょうが、人口増加につれて宅地造成もどんどん拡大しているシドニー、この辺りも例外ではなく、やたらでっかい住宅街やら企業の本社やらが立ち並んでいて、この「ファーム」だけがポツンと開発から取り残されたような、強制疎開に頑として応じない偏屈親父のような、ちょっと異次元の空気を醸し出しています。

 しかしファームですから、羊もいます。ニワトリも平然と餌をついばんでいます。そこへちょっとお邪魔して、我々俳優たちが芝居なんぞをやらせていただいているのです。

 

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 この建物はかつてこのファームを所有していたお金持ちの家族が代々住んでいた家で、現在は重要文化財に指定され、地元の自治体が所有しています。その家の前にステージが設置されていて、今回の野外劇のような公演やイベントが折に触れて開催されています。

 我らが劇団 Sport for Jove の夏の特別公演も、今年で9年目を迎えます。野外ですからみなさん気軽に、ワインやらスナックやらを持ち込んで、ピクニックがてらに芝居を見る、という非常に気楽な雰囲気なので、毎年楽しみに待っていてくれるご贔屓さんたちもいるようです。

 シェークスピアというと、不勉強な僕なんかは居住い正して暗い劇場で見るところ、という固定観念がありますが、そんなことはありません。もちろん育った環境にもよるんでしょうが、みなさん大抵こういう気楽な感じで、子供の頃から古典演劇に触れながら育ってきてるんですね。

 

 ところで、今こちらは真夏です。

 シドニーあたりではまだマシですが、内陸に行けば行くほど海風の影響を受けにくくなるせいか、このファームあたりでは40度を超える日もザラにあります。乾燥機の中に放り込まれたかと思うような熱風が吹き付けてくるかと思うと、どういう訳がじっとりと湿気が襲ってくる日もあります。

 その中で、フェルトのズボンにロングブーツ、長袖シャツに分厚いベスト、という怖気の振るうような衣装を着て2時間舞台上を走り回るというのは、かなりの体力を要する仕事です。その上、人一倍汗っかきの僕は初めの5分ですでに汗だくになり、1幕目が終わる頃には「おや、雨でも降ってますか」ってな濡れ鼠になるので恥ずかしいことこの上ない。かといって水分補給を怠る訳にもいかず、飲めば飲んだだけ汗になって噴き出し、という繰り返しで、こればっかりは体質でどうしようもないとはいうものの、舞台をやるたび頭を悩ませる問題ではあります。

 もちろん、芝居が始まるのは午後7時半。夏時間が採用されているシドニーではちょうど日が沈む頃で、日中の暑気は幾分収まってきます。舞台裏に引っ込むたびに、やっと吹いてきた夕風を求めて建物の裏に出て行って、衣装をはだけて涼んでいる姿はお客さんは到底見せられない代物です。

 

 暑さだけではありません。野外劇ですので、敵は他にも存在します。役者の声をかき消す騒音です。

 一応こちとらプロですので、発声の基礎の基礎ぐらいは習得しているし、舞台の前には発声練習は怠りません。声を遠くの観客まで届かせる工夫についてはリハーサルの段階から何度も念を押され、ボイストレーナーを呼んで個別レッスンを重ねるなど、劇団側も随分僕たち新参者の俳優に配慮してくれていました。しかし実際に舞台に立ってみて、劇場の箱の中では遭遇しない敵どもが、野外にはなんとたくさんいるものかと思い知りました。

 声を張り上げても張り上げても押し返してくる風。

 割と低めのところを轟音を響かせて飛んでいく飛行機。

 まるで嫌がらせのようにエンジンをふかして近所を爆走するバイク。

 そして、鳥。

 

 オーストラリアでは基本的に、鳥はさえずりません。

 さえずるのもいますが、そういう遠慮深く可愛らしいのは声のデカい大多数に圧倒されて、身を潜めています。

 ほぼ22年前、初めてオーストラリアに来た時、シドニーの市街地の街路樹に群れをなしている鳥たちの声を聞き、「なんだここは、ジュラシックパークか」と呆然とした覚えがあります。恐竜の一種かと疑うような「ぎょえええええーーーー」という断末魔の雄叫びが、それこそ何十羽も、時には何百羽単位で集まって我勝ちに騒ぎ立てるのです。

 鳥たちにもいろいろ都合があるんでしょうが、そうやって集団で木に止まって騒ぎ立てるのは早朝か夕暮れ時。そんな時刻に外で芝居なんかするなよと鳥には言われそうですが、こっちにも都合ってもんがあるので負けじと声を張り上げます。しかし何十羽の「ぎょええええええーーーー」に負けじと大声を出していると、もはや感情の機微やらニュアンスやらはどこかへすっ飛んでしまい、毎年恒例の「年忘れ絶叫大会」みたいになってしまいます。

 そして日が沈み、鳥たちの声もやっと静まり始めたかと思うと、今度は入れ替わりにコウモリの合唱が始ります。

 コウモリというのはバットマンの映画みたいに、洞窟の奥深くに隠れているというイメージがあるかもしれませんが、オーストラリアではそうはいきません。シドニーの市街地にもたくさん住み着いていて、夕暮れ頃から上空をコウモリの大群が列をなして飛んでいくのを見ると海外からの訪問客は大抵びっくりします。夜はやっぱり彼らの活動時間ですから元気いっぱい、そこらの木の上に集まって、餌を奪い合っているんだか、ただくっちゃべっているだけなのか、甲高い通りのいい声で「うきゃきゃきゃきゃきゃ」とやかましいことこの上なく、佳境に入ってきた舞台で気を入れてやってる我々には憎っくき存在です。

 

 もちろんそういう全てをひっくるめた環境こそが、野外劇の醍醐味ではあるんですけどね。自然豊かなオーストラリアだからこそ、そういう野趣に富んだ舞台が楽しめるというのも一つの見方でしょう。その分役者がしっかりしてないといけないなーと反省する毎日です。

 ただ大きい声でがなりたてるのではなく、しっかりと密度濃く観客に届く声で、なおかつ細かいニュアンスも十分に伝えられる、そんな発声ができるようになって初めて、一人前の舞台俳優と言えるんだと思います。風にも負けず、鳥にも負けず、夏の暑さにもコウモリの叫びにも負けず、毎回毎回試みと反省を繰り返しながら、舞台に立っています。

 どんな環境であれ、お客さんの前に立てるのはなんともありがたい幸せです。1月からは場所をブルーマウンテンのルーラに移して、また公演が続きます。よろしければいらしてください。

 

http://www.sportforjove.com.au/theatre-play/the-servant-of-two-masters

 

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 みなさんどうぞ良いお年を。2018年もよろしくお願いします。

 

侮るなかれ

 たまに、観客の前に立ちながら実はほとんどリハーサルもしておらず台詞も入っていないまま芝居をしている、という夢を見ます。

 なんとか体裁だけは取り繕おうと気ばかり焦り、いざ自分の番になると冷や汗ダラダラ、鉛でも飲んだように胸が詰まって一言も発することができず、観客や共演者の針のような視線を全身に受けている、というところで目が覚めます。その先どうするのかはたとえ夢でも考えたくないと、脳味噌のほうでも拒絶反応を示しているのかもしれません。

 

 舞台のリハーサルも最終段階に入ってきました。

 前回お話ししたように、今回は2本立て、そしてもう一本は泣く子も黙るシェークスピアです。もっとも僕の出番はそれほど多くはないですし台詞も少ないほうですが、何と言っても敵は17世紀の英語です。同じ言語ではあれ語彙も語順も違ってきたりするので、一語一句抜かりなく憶えていかなければ太刀打ちできません。

 

 2ヶ月かかって憶えた別の役は他の役者の手に渡り、新しい役を、自分の台詞だけを抜き出してまたブツブツ呪文のように唱える日々がしばらく続きました。しかし頑張った甲斐あって、シーンごとのリハーサルでは、何とか自分の台詞は一応もっともらしく言えるくらいにはなっていました。

 そして驚いたことに、シェークスピアの英語に苦労しているのは、キャストで唯一英語を母語としないノンネイティブの僕一人ではなく、英語が第一言語のオーストラリア人の俳優でさえ、台詞の意味がよく分からず何のこっちゃと頭を抱えているのでした。

  市販されているシェークスピアの戯曲にはもちろん注釈が付いていて、現在使われていない言葉や意味の違う表現などは説明してくれます。それでも無理、読み進む読解力も気力も時間もないという人、特に怖気付いた俳優やにわか勉強の学生には、「これさえ読めば大丈夫 バカでも分かるシェークスピア解読マニュアル!」みたいな本も各種売られているくらいです。最近では現代語訳をスマホですぐさま弾き出せるウェブサイトなどもあって、共演者の若い俳優がちらちらのぞいているのを目撃したりもしました。

 

 おまけにシェークスビアの戯曲というのは、ほとんど台詞しか書いてありません。ト書きでああしろこうしろとか、舞台の背景はこういう感じで、とかいうような、現代劇によくある作者の意向みたいな記述は省かれている上に、もちろんさすがシェークスピア先生、凡人の我々には読み解けないような謎や深いテーマなども奥行き深く隠されているようで、演出家や俳優がそれらを自由に読み取って展開させてくれるという懐の深さを持っています。これまで何百年も、世界各地で演じられてきた秘密というのは、こういう手強さと奥深さにあるのかもしれません。

 だから、話のテーマや登場人物の行動に関する解釈が、読み手によってかなり違ってきたりします。リハーサルでディスカッションをした際に、「え?マジ?これって、そういう話?」と、自分のとは全く違う受け取り方にびっくりしたことは1度や2度ではありません。演出家や俳優たちがあーだこーだと自論を述べながら擦り合わせをし、最終的に演出家がそれをまとめあげて形にする、というプロセスにかなり時間がかかりました。

 

 そんなこんなで、当初腰が引けていた僕も、シェークスピアに怖気付いているのは自分だけじゃないんだと分かると、かなり余裕が出てきました。小田島先生の日本語訳のお陰で話の筋はだいぶ分かってますし、必死で憶えた台詞は割とすんなり出てきます。

 リハーサル開始当初、隣で共演者が台詞を忘れて焦っているのを見ながら、

「なーんだ、俺、結構ちゃんとやれてるじゃん。シェークスピア、思ったほど怖くないじゃん」

 気が軽くなったような気がしました。

 侮るなかれ、という今回のお題は、その時の甘さを自戒する気持ちで浮かんだ言葉です。

 

 リハーサルが進むにつれ、なんだほとんど同じレベルじゃないかと軽く見ていた共演者たちは、話すスピードも動きも解釈も、倍速ターボでレベルを上げてきました。

 何せ彼らは中学高校の時分から、時には半ば強制的にシェークスピアを見せられ、演劇学校でも訓練を受け、何にもない僕とは下地が全く違います。自分の持ち味を十分活かしながら、シェークスピア英語で役に命を吹き込む作業を着々と進めているように見えます。

 彼らとの歴然たる差を意識すればするほど、萎縮していく自分をどうしようもありませんでした。自分の訛りや滑舌の悪さが、途端に気になり始めました。そして一挙手一投足が、シェークスピアの世界をぶち壊しにしてるんじゃないかとさえ疑い始めました。

 もう一つの現代語での芝居でも、台詞を上手く言えない自分に苛立っていました。たとえ台詞を一言一句、間違わずに言えなくても、英語のネイティブなら咄嗟に他の表現で言い換えることができます。しかし今の僕にはその訓練がまだまだ足りず、全く違う言葉が飛び出してしまった時に、パニックに陥らずにうまく修正できる余裕が無いのです。

 英語の世界で25年以上暮らしているのに、未だに英語も満足に話せないのか。

 この歳になるのに、まだこの程度のことで恥をさらしているのか。

 これまでに何度となく頭の中に響いてきた自責の言葉が息を吹き返し、やがて、ただ反射的に発するだけだった台詞は、底の浅さを露呈して、出てこなくなりました。

 

 さて、ここで問題です。

 こういう状況に陥った時、最も効果的な対応は次のうちどれでしょう。

 ①不甲斐ない自分を叱り飛ばし蹴り倒し、再起不能なまでに痛めつけた上でそれでも頑張れと叱咤激励する。

 ②自分は頑張ればなんでもできる、長所はこんなにあるじゃないかとポジティブ思考に無理やり切り替えて自分をほめそやす。

 ③ネガティブな考えや、よく見られたいと思うエゴは浮上するたびに受け流して、とりあえず目前のタスクに没頭する。

 

 自分自身との無益な攻防を、もう何十年も繰り返してきて、僕がやっとたどり着きつつある答えは、③です。

 自分に厳しいといえば聞こえはいいですが、僕の場合これまで厳しさは萎縮を生み、成長を阻む枷でしかなかったような気がします。自分への自信の無さは、自分をよく見せたいという見栄と表裏一体であり、無理に自分の長所を数え上げたところで所詮何の効果もありませんでした。度を超えたネガティブ思考とポジティブ思考の間で身動きが取れないまま、それでも無様にのろのろと歩みを進めてきて、いつの間にやらこんなオッサンになっていました。

 頭に浮かんでくる考えは、おならやゲップのようなもので、自分でどうこうできるもんではありません。抗ったところで体にも悪いし、とらわれることなくまあその時々で、ああそうですかと他人事みたいに対処すればいいんだと、この歳になって知りました。役にも立たない罵声やら声援やらはそれはそれとして、向かい来る球に集中するバッターのように、目先の仕事を一つ一つこなしていくしか自分にできることは無いんですよね。

 

 そう割り切って、恥を重ねながら、迷惑をかけながら、台詞も演技も自分にできるだけの努力をして、なんとか持ち直しつつあります。

 そして冷静になって周りを見回してみると、自分の至らなさや理想とのギャップに悩んでいるのは、自分一人では無いことが分かりました。俳優はみんな、程度の違いこそあれ、いろんな壁にそれぞれぶつかっていて、そんな情けないのは自分だけじゃないかと密かに思いながら、自分の仕事に向かっているのでした。

 幸いなことに、今回もいい共演者に恵まれました。お山の大将になりたがったり、エゴを振り回して問題を起こしたり、というような鼻つまみ者は一人もおらず、お互いを気遣いながらアンサンブルとして一緒に舞台を成功させようという、いい奴らばかりです。そういう仲間意識が生まれると、自意識のあれこれは鳴りを潜めて、目の前の舞台に集中しやすくなるようです。

 

 敬愛する女優、岸恵子さんがエッセイの中で、こんなことを書いておられました。正確な表現は覚えていませんが、

「俳優には、自分自身への信心がある」

 周りにどう言われても、自分にしかできない役がある。自分の声、自分の容姿だからこそ表現できるものがある。そしてそのことをバカみたいに信じ込んでいるからこそ、俳優なんて先も見えないヤクザな稼業に入れあげることができる、というようなことだったと思います。

 この一文を読んだ時、なんだか背中を押されたような気がしたのを覚えています。

 どんなに落ち込んでも、自信がなくて不安でも、難しい状況に直面しても、心の底のどこかから、「ま、大丈夫じゃない?できるんじゃない?」と自分を信じてやれる気持ちが湧き出てくる瞬間。誰の人生にも、一度や二度はあるはずで、何も俳優に限ったことじゃありません。そういう繰り返しで、みんな長いようで短い一生を送っているんでしょうね。

 

 侮るなかれ。

 侮るなかれ。

 

 俳優として、いつまでたっても自信が持てない自分ですが、行き詰った時の自分が立ち直る力も、侮るなかれと思っています。

 

 昨日プレビューを終え、今晩いよいよ初日を迎えます。

 よろしければ見にいらしてください。

 

http://www.sportforjove.com.au/theatre-play/measure-for-measure

 

  

まさかまさかのシェークスピア

 ずいぶん間が空いてしまいました。みなさんお元気ですか。

 

 こちらは、12月初めに初日を迎える舞台のリハーサルが続いています。

 サンディエゴからシドニーに戻ったのが15日の早朝、1週間の休みをいただいた負い目もあって時差ボケの何のと言ってもいられず、その昼からそのままリハーサルに戻りました。憶えていたはずのセリフや段取りがすっ飛んでしまっていたりして、冷や汗タラタラ、謝ってばかりの体たらくで、あっという間の2週間でした。

 公演の初日まであと1週間半、泣いても笑っても最後の追い込みに入っています。

 英語のセリフを覚えるなんてただでさえ頭が痛いのに、今回は何せ2本立て、その分リハーサルも長丁場です。そして何よりも緊張するのは、いやあなた、演目のひとつが何てったって天下のシェークスピア先生のお作ですから、そりゃあもう俺なんてお門違いもいいところ。齢48にして嬉し恥ずかしシェークスピアデビューです。

 人生何が起こるか分かったもんじゃありません。

 

 シドニーにベースを置く劇団 Sport for Jove は創立からまだ10年足らずですが、シェークスピアなど古典を中心に様々な舞台公演を行っていて、年々評価が高まってきています。

 劇団といっても、俳優が座員として常に在籍するわけではなく、役はほとんどオーディションでその都度選んでいます。もちろん以前の公演に出演した俳優や特定の俳優に役が割り振られることもありますが、毎回同じ役者が出てくる日本の劇団システムとはかなり様子が違います。

 この劇団の舞台は1年ほど前に、同じくシェークスピアの作品「エドワード2世」を見たことがあります。やはりシェークスピア、もちろん台詞や筋は分からないことだらけだったものの、シンプルで斬新な演出と、出演する俳優たちのレベルの高さに圧倒されて、閉幕後に舞台装置を残して役者がいなくなったステージを見ながら、いつになったらこんな人たちに混じって芝居ができるようになるんだろう、と気が遠くなるような思いがしたのを覚えています。実際にはこれまでにも、すごい方々とすごい現場で共演させていただいているにもかかわらず、心臓を鷲掴みするような映画や舞台に出会ったときは、いつでもそういう気持ちになります。俺ごときがこんなところに加えていただける筈がない、と謙虚なんだかただ単に自信がないんだか、まあたぶん後者に違いありません。

 

 それに大きな声では言えませんが、シェークスピアにはさほど魅力を感じていませんでした。台詞も難しいし自分とはかけ離れた世界で敷居が高いし、それでもやっぱりお勉強させていただくためには見とかなきゃいけないし、ってんで、居住まい正して神妙な顔して見に行くもの、という存在です。ましてや日本人の自分が、17世紀の英語を使ってシェークスピアの世界に登場することなど、まさかある訳ないじゃないかと思っていました。だから現代劇のオーディションに呼ばれなくて悔しい思いをすることはあっても、シェークスピア劇ならさもありなん、当たり前ですよねーと最初から納得できるような、こちとらおにぎりが入り込む隙などない世界だと信じ込んでいた気がします。

 

 ところが今年、エージェントを通して Sport for Jove からオーディションにお呼びがかかりました。毎年12月と1月(こちらは夏です)に、シドニー郊外の町ベラビスタと、国立公園にもなっている名所ブルーマウンテンの町ルーラで行っている野外公演です。演目はシェークスピアの Measure for Measure(邦題:尺には尺を)と、イタリアの古典コメディー The Servant of Two Masters の2本。どちらも全く知らない話です。

 どのオーディションもそうですが、まあダメで元々、失うもんがある訳じゃなし、今やれるだけをお見せしてそれが後々何かに繋がればめっけもん、という軽い気持ちで出かけました。もちろんモノローグの準備は入念にしましたが、まさか受かるとは思ってもみませんでした。

 

 エージェントから嬉しい知らせが届いたときは、えらいことになったと思いました。

 ありがたいことに、長い間白人ばかりが日の目を見ていたオーストラリアの演劇界も、非白人の俳優にももっと門戸を開放して、実社会とのギャップを埋めなければならないという機運が高まりつつあります。そもそも僕にお声がかかったのも、そういう追い風を受けて劇団が普段より枠を広げてくれたからかもしれません。受かってしまった以上は全力を尽くすのは当然ですが、今回ばかりは責任が重い。日本人の役者も入れてみたけどやっぱりやめときゃよかったなー、なんて公演終了後に後悔されたりなんかしたら、先輩同輩後輩のアジア人俳優たちに顔向けできません。

 リハーサルの開始まで2ヶ月はあります。自分の実力なんて高が知れてますし、経験豊かな共演者たちを凌ごうなんてもちろん夢にも考えず、とにかく台詞だけは一人前に言えるように、それもちゃんと意味や役柄をきちんと理解した上で喋れるようにしておこうと決心しました。とりあえずは自分の役の台詞だけに集中させていただいて、言葉の意味やリズムに気をつけながら、念仏みたいにブツブツ台詞を繰り返す日々がしばらく続きました。

 話の筋や難解で独特な表現を原書でそのまま理解するほどの時間も頭ももちろん無く、ネットですぐさま日本から訳本を取り寄せたことは言うまでもありません。小田島有志先生とインターネットの発達のおかげです。足を向けては寝られません。

 

 そして迎えたリハーサル初日。

 集まったキャストやスタッフは総勢20名ほど。知った顔はほとんどいません。心なしか誰もが百戦錬磨の顔つきに見え、シェークスピアなんて裏の裏まで知り尽くしてるぜ、的なオーラを発している気がしてきます。もっとも自分がこの中でもおそらく最年長の部類に入ることはほぼ間違いありません。

 やがて簡単な自己紹介が始まりました。皆それぞれ緊張を隠しつつ、にこやかな表情は保ちジョークも交え、一人ずつ自分の名前と役名を言っていきます。

 僕の番が回ってきて、役名を告げた時、監督が首をかしげました。

「あなたは、あれから別の役になったんだけど、メール行かなかった?」

 

 ざざざざっぶーーーーん。

 

 全身から血の気が引く音が、ドルビー顔負けの重低音で響きました。

 聞いてませんっ!メール来てませんっ!信じられませんっ!

 頭真っ白で息も絶え絶えな僕を尻目に、自己紹介は粛々と進み、何事もなかったかのように読み合わせが始まりました。

 これまで全く目を通したこともなかった別の役柄の台詞には、意味も発音もわからないような言葉がいくつも並んでこっちをせせら笑っています。小田島先生のお陰で何とか大筋は理解しているものの、向かい来る台詞たちを何とか読み上げるので必死です。自分の出番でない時は先回りして次の台詞を見つけ出し、焦りと恐怖で心臓バクバク鳴らしながら解読するという、修羅場のような数時間を過ごしました。

 

 連絡ミスの原因は、監督が送ったメールの宛先が俺の分だけ間違っていたから、とごく簡単で、もちろん監督からは謝罪の言葉ももらいましたけど、心臓に悪いなんてもんじゃありませんでした。

 まあ今から考えると、そんな状況でも何とか乗り切れる程度には英語も上達したんだろうし、長くやってるだけあって度胸も据わってきたんだろうと自分を褒めてやりたい気もしますが、まさかあれだけ苦労して覚えた台詞が他人の手に渡ってしまうとは予想もしませんでした。

 ほんっとに、人生何が起こるかわかったもんじゃありません。

 

 そんなこんなで、波乱含みで始まったリハーサルも、早いもんで終盤に近づいています。新しい役の台詞はやむなくまた最初から覚え直し、恥かき汗かきあれこれ苦労しながらも何とか人並みには言えるようになってきたようです。

 長くなったのでこの続きはまた改めて。

 どうぞみなさんお元気で。

 

 ps ちなみに、こちらが公演のウェブサイトです。お時間のある方は是非是非。

Measure For Measure Play | Sport For Jove

 

 

 

サンディエゴにて

 今、アメリカのサンディエゴに来ています。

 2年前に僕が自主制作した短編映画 "RICEBALLS"が、この地で毎年開かれているサンディエゴ・アジアン映画祭で上映されたので、そのプロモーションを名目に、実は映画祭の雰囲気を楽しむためにやってきました。

 まだ2本しか映画を作ったことのない素人の作品にも拘らず、ありがたいことにこの映画、2016年4月にトロントで開かれた TIFF Kids 国際映画祭を皮切りに、これまでに世界各国30以上の映画祭に招かれて、たくさんの観客に見ていただきました。国を挙げると、オーストラリア、アメリカ、カナダ、シンガポール、デンマーク、インド、イギリス、カタール、アラブ首長国連邦、インドネシア、メキシコと、多岐に渡ります。どういうわけか日本の映画祭にはことごとく門前払いを食わされていて、未だに凱旋上映が果たせておらず、リストにに日本が入っていないのがなんとも悔しい限りです。

 

 この映画は、シドニーに住む日本人の父親と、オーストラリア人とのハーフの息子が主人公です。妻を亡くしたばかりの父親は、日本に帰るべきかと迷いながら息子を育てています。息子のランチのために不器用な父親が作るのは、昔ながらのおにぎり。しかし息子は母親がよく作ってくれたサンドイッチを恋しがります。やがてこのおにぎりが、二人の心を結びつけ、悲しみを一緒に乗り越える強さに変えていく、というストーリーです。

 映画のこれまでの記録は、Facebookに専用ページがありますので、是非こちらをご覧ください。

www.facebook.com/riceballsfilm/

 

 映画祭の楽しみは何よりもまず、いろんな人に会えることです。

 人に見てもらえなければ、映画を作った甲斐がありません。自分の映画を見てくれた観客と直に対話できるというのは、本当に嬉しい瞬間です。

 世界の国々からのフィルムメーカーに会えるというのも、貴重な経験です。

 世界各国ありとあらゆる場所で、数え切れないほどたくさんの人たちが、たっぷりの情熱を込めて映画を作っています。ハリウッドだけが映画界じゃないんだということを、映画祭に行くたび教えられます。

 短編映画は特に、ほとんどの場合お金儲けにつながることはまずありません。みんな地位とか名声などには縁遠そうな顔つき語り口で、それでも自腹を切ってまで作った自分の映画が認められて映画祭に来ていることが、嬉しくてたまらない面々です。映画好き同士が集まって一緒に酒を飲み、お互いの映画に触発され、お互いに元気をもらってまたそれぞれの国へ帰っていく。そういう映画祭の楽しさは、一度味わうと癖になります。高い飛行機代を払ってでも、できる限り参加したくなるのも無理はありません。

 もちろん、これがカンヌだヴェネチアだ、となるとこうも悠長なことも言っていられず、やれ何を着るの誰とコネを作るのどこのメディアに売り込むのと、いろいろめんどくさいことも出てくるんでしょうが、僕が参加した映画祭レベルではそんな気苦労もプレッシャーも一切なしです。マイナーで結構、僕はそっちの方が気楽でありがたいです。

 

 今回の映画祭で、また一つ忘れがたい出会いがありました。ある映画に合わせて行われた小さなパーティーの席でのことです。

 僕は映画祭にはたいてい一人で参加します。人見知りというか自意識過剰というか、自分から人に話しかけるというのがいくつになっても苦手な僕にとっては、こういう場所は毎回苦行です。一度知り合ってしまえばかなり人懐こい方だとは思うんですが、どうしても最初の一歩が踏み出せず、気安く誰かと会話を始めている人を羨ましく見ながら、気まずい時間をやり過ごします。

 その時もやっぱり会話の輪に入りそこね、空いていた壁際の席に座りました。隣に座っていた中東系のおじさんに、なんとなく親しみを感じたからかもしれません。

 どちらからともなく、そのおじさんと僕の間に会話が生まれました。訛りがきつい上に歯が数本欠けているおじさんの話は時々理解に困りましたが、問わず語りに始まった彼の半生の話に、いつしか引き込まれてしまいました。

 

 そのおじさん、ナジャさんはイラク出身です。80年代初頭、ナジャさんがイラン・イラク戦争に兵士として駆り出されたのは彼が22歳の時でした。奥さんと、まだ赤ん坊だった息子を残し戦場に赴いたナジャさんは、程なくして戦闘で負傷します。

 やがてイラン兵がやってきました。その当時、見つけた敵は捕虜にすることなく殺すのが当たり前だったのですが、まだ若いイラン兵は、ナジャさんが持っていた奥さんと息子の写真を見て同情したのか、彼の命を助けたのでした。

 その後ナジャさんは、戦争捕虜としてイランでなんと17年間も投獄され、動物以下の扱いを受けながら過ごしました。そして90年代後半に、やっとの思いでイラクに戻った時には、奥さんと息子の行方は既に分からなくなっていました。最初の湾岸戦争で街は荒廃し、ここにいても仕方がないと思ったナジャさんは、やがてカナダに渡りました。

 バンクーバーでの新生活は決して楽ではありませんでした。戦争の傷跡がPTSDという形でナジャさんを苦しめ、やがて病院通いをすることになります。

 ある日病院の待合室で、向かいに座った中東系の男性を、ナジャさんは初めイラク人かと思いましたが、話をするうちに彼がイラン出身だということがわかりました。話はやがて戦争の話になり、二人ともイラン・イラク戦争で従軍していたことが判明すると、どの部隊で、どこで戦っていたのかなど話はどんどん焦点が狭まっていきます。そして二人の話にますます共通項が見つかっていくのです。

 そのイラン人の男性が、なんとナジャさんの命を救った元兵士だったことがわかった時、待合室に絶叫が響き渡りました。戦火の合間に命を分け合った敵兵同士が、20年以上経った後、どういう運命のいたずらか、遠く離れたカナダで再会したのでした。

 叫び声に驚いて飛び出してきたお医者さんは、二人の話を聞くとすぐさま地元のテレビ局や新聞社に連絡しました。この感動の再会は当時カナダで大きなニュースとなり話題を呼んだのだそうです。

 この話を是非ドキュメンタリー映画にと、二人にアプローチしたのが、ジャーナリズム出身で韓国系カナダ人の女性監督、アン・シンさんでした。二人の数奇な半生と現在、カナダで再会した二人の深い友情関係、そして再び奥さんと息子の行方を求めてイラクに渡ったナジャさんの旅を、感動的な記録にまとめあげたのが、ドキュメンタリー映画 "My Enemy, My Brother" です。

www.myenemymybrothermovie.com

 

 パーティーの翌日に開かれた、この映画の上映会で、イラン出身の元兵士、ザヘドさんにもお会いすることができました。

 彼の半生の話を聞いていると、いったい何本映画ができるんだろうと思うほど様々なストーリーに満ちています。眼光鋭い彼ですが、その視線は生半可な役者がいくら格好つけて凄んでみても足元にも及ばない、深みと温かみがありました。

 ナジャさんの命を救った時、ザヘドさんはまだほんの子供だったそうです。父親から受け続けたひどい家庭内暴力から逃れるために、イラン軍に志願した時、彼はまだ13歳でした。

 敵兵を助けたことで入獄され、ひどい拷問も受けたと言います。戦争や獄中で受けた傷のために、ザヘドさんが受けた整形手術は13回にも及ぶほどでした。戦争の記憶は今でも彼を苛んでいて、ナジャさんと同じく、ザヘドさんも悪夢を見ない夜は1日もないのだそうです。

 難民としてカナダに移住した彼の元に、イランの家族から、父親が癌に侵されているという知らせが入りました。長い苦悶の日々を経て、自分も父親になった彼は、父親もまた子供の頃に受けた心の傷に苛まれていたことを知り、憎しみに駆られて生きるのはやめようと心に誓います。しかし様々な事情から、和解しようにもイランに戻ることができません。ナジャさんの家族探しの旅に同行してイラクに行き、イラン国境の街からふるさとの街を見つめながら涙を流すザヘドさんの表情は、この映画で忘れられないシーンの一つでした。

 

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ナジャさん

 

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ザヘドさん

 

 

 ナジャさんもザヘドさんも、一見ごく普通の人懐っこいおじさんです。もはや家族同然の間柄になった二人の掛け合いは何とも温かい愛情に満ちていて、周りにいる人間をも温めてくれるほどです。笑顔には慈愛が溢れかえっています。

 僕があれこれ不平を言いながらも安穏と暮らしていた同じ17年間に、ナジャさんは過酷な獄中生活を送っていました。そして僕が相変わらず不満たらたらで過ごす現在も、ナジャさんとザヘドさんは毎晩悪夢と戦っています。

  こんな普通のおじさんの心の奥底に、こんなに深い悲しみや辛い記憶が隠されていることを、いったい誰が知り得たでしょうか。

 中東系の人を見ると片っ端からテロリストを連想する、偏見だらけの「西側社会」の我々は、想像力の欠如という病気のために、彼らの苦しみや人間としての共通項を感じ取ることができなくなってしまっています。

 悲しみに裏打ちされた二人の温厚な笑顔は、それと似たものが実はあちこちで咲いているはずです。それに気づかずに通り過ぎてしまうほど、あまりにも僕らは急かされていて、心を閉ざしたまま日々を歩いているんだなと、愕然とする思いでした。

 

 彼らの痛みの1000分の1も、僕は感じ取れないかもしれません。それでも彼らに実際に会い、話を聞かせてもらうことができたことの幸せに、心から感謝しています。そしてこういうストーリーを紐解いてくれる、ドキュメンタリー映画というメディアの奥深さに、改めて目を開かされました。

 今からシドニーに戻ります。甘えたことを言い始めたら、ナジャさんとザヘドさんを思い出そうと思います。そしていつか彼らに会いに、バンクーバーに行けたらと思います。

 

 長文を読んでいただき、ありがとうございました。お元気で。