これまでのこと

 生れは大阪です。

 

 高校まで大阪で暮らし、大学進学のために東京に出ました。

 ご多聞にもれず勉強はさほどせず、昔から興味のあった役者の道を探り始めました。某俳優養成所でレッスンを受けたり、社会人が集まって年1、2回の公演を行う素人劇団で芝居をしたりしながら過ごしましたが、プロになれるなんていう確信も野望も、当時は持ち合わせていなかったように思います。芝居がしたい、という思いは、子供の頃から血のように全身を巡っていたものの、成長する上で抱え込んだ自信の無さやその他もろもろの心の悶々が、そっちの方角へ踏み出すことを思いとどまらせていたのかもしれません。

 

 でも今思い返すと、当時は役者になりたいという思いよりも、海外に出てみたいという思いの方が、うんと強くなっていたような気がします。

 大学では、海外からの留学生と交流したり手伝いをしたりするサークル活動をしていたので、そこで見聞きするようになった異文化に触発されて、自分もいつか海外に行きたい、と思い始めました。丁度バブルの真っ最中、語学留学や大学留学が盛んになっていた頃です。しかし大学を休学して海外に出るほどのお金も度胸も英語力もなく、深夜の焼肉屋でのバイトでお金を貯めて、ようやく日本を出たのは大学卒業の後でした。

 

 海外に出ると言っても、つぶしの効かない文学部日本文学科卒業の自分にいったい何ができるんだろうと考えて、思い立ったのが日本語教師でした。

 当時はバブル景気の勢いにつれて、世界各地で日本語学習熱が猛烈な高まりを見せていた頃で、海外で日本語を教えるプログラムもどんどん数が増えていました。その中でも一番参加費が安く、その後の大学留学にもつながりそうなプログラム、ということで目をつけたのが、アメリカ・ウィスコンシン州の学校で日本語や日本文化をボランティアで教えるJALCAPという民間のプログラム。これに運良く合格し、年齢もバックグラウンドも様々な同期生たちと日本を出たのが、1992年の7月末でした。

 

 初めての海外生活は、それはもう、新発見と驚きと挑戦と失敗と挫折と楽しみと出会いと興奮と反省とが、時には数分おきに代わりばんこで押し寄せてくるような体験でした。1年間のボランティア教師経験の後、分不相応にも大学院に潜り込み、今から思うと情けないようなお粗末な英語力のまま、教育学を専攻して2年勉強したりもしました。本当に、身の程知らずほど怖いもんはありません。いろんな人のお世話になり、時にはご迷惑もおかけしながら、それでもやっぱり、あの時どうにかこうにか突き進んで、成長したからこそ今があるんだと、ありがたく思い返します。

 

 オーストラリアに来たのは、1996年の1月でした。

 大学院を出て、そのままアメリカで仕事を見つけようにもビザの取得は難しく、どうしようかと考えていた時に見つけたのが、国際交流基金が実施していたプログラムでした。オーストラリアとニュージーランドの高校に、日本語教育助手を毎年数名派遣するもので、2年間の期限付きながら今度はちゃんと結構な額の給与も支払われるという有り難さです。まだアメリカにいた頃に一か八かで応募したところ、専攻試験に運良く合格し、それまで全く考えてみたこともなかったオーストラリアに住むことになりました。

 まさかそのオーストラリアに、その後20年以上も住みついて、しかも役者で身を立てて行こうなんて無謀なムラ気をおこすなど、当時はもちろん爪の先ほども予想していませんでした。ほんとです。

 

 転機は、オーストラリア生活2年目にやってきました。

 新聞に出ていた「アジア人俳優募集」という広告に、ふと目が留まったんです。

 海外生活にも慣れてきて、自分の英語力を過信するくらいの思い上がりが出てきたんでしょう。昔見た夢が、むくむくと頭をもたげてきたのがわかりました。

 オーディションに行ったところどういうわけか気に入られ、戦争捕虜の役をもらいました。今はもうなくなってしまった場末の小劇場でひっそりと行われた自主公演は、内容も大したことなく客の入りも散々だったものの、子供の頃から好きだった演技の世界に再び目覚めるきっかけを僕に与えてくれました。人前で演じることの興奮や歓びを、それこそ全身の血流に呼び戻すような感覚、と言うんでしょうか。麻薬中毒のような表現ですが、そう外れていないようにも思います。

 共演俳優のエージェントに目をつけられ、うちに来ないかと言ってくれたこともヤク中の舞い上がりに拍車をかけました。二つ返事でお受けして、俳優の世界になおさらズブズブと足を踏み入れていったのです。

 

 国際交流基金の仕事が終わった後も、シドニーで日本語教育の仕事を得て働いていましたが、フルタイムで仕事をしているとオーディションにも行けず、フラストレーションが溜まる一方でした。もちろん、英語もまともに話せずルックスがいいわけでもない日本人に、大した役など回ってくるはずもありません。それほどの技量があるわけでもなく、俳優として身を立てていく術も道筋も全く知らないことは、十分自覚していたはずです。それなのに、それほどまでに俳優業のチャンスに執着する自分に気がついた時、それだけやりたいんならやってみればいいじゃないか、という無謀な囁きが、心の中で次第に膨れ上がっていったんです。

 その時、僕はすでに30歳を超えていました。普通に就職した同期生たちなら、結婚もし、昇進もし、将来設計も着々と進めているだろうに、自分は何をやってるんだろうと思いながら、不思議と恐怖や不安を感じた記憶がありません。自分に自信はないくせに、人と同じ生き方を強制されることにはことごとく反発する、依怙地で無鉄砲な性格が頭をもたげたんだと思います。少しばかりの迷いには目をつぶって、オーストラリアの永住権が取得できたのをきっかけに仕事を辞めて、俳優の仕事に焦点を絞りました。2001年1月のことです。

 

 それから16年余り、どうにかこうにか俳優を続けています。

 相変わらず鳴かず飛ばずですが、これだけ長い間この夢にしがみついてきたからには俳優を名乗ることに物怖じする必要もないだろうと、いささかの自負も持てるようになってきました。

 そして相も変わらず、壁にぶつかったり悩んだり、初めてアメリカで暮らした頃と同じような、新発見と驚きと挑戦と失敗と挫折と楽しみと出会いと興奮と反省とが、年を食っただけはある少しばかりの知恵やしたたかさを携えて、繰り返していく毎日です。

 その辺のことを、これからボツボツ書いていこうと思っています。

 自慢にもならない、行き当たりばったりのあれこればかりですが、たくさんの人とつながるきっかけになればと願っています。ご感想など、よろしくお願いします。

 長文になりました。今日はこれで失礼します。

 

 宇佐美慎吾