パン屋のおにぎり

 かなり昔、とある日本の高校で晴れがましくも講演なんぞさせていただいた時に、今まで自分が演じた役を書き出してみたことがありました。

 でっかいハリウッド映画からギャラも出ない学生映画、14ヶ月のミュージカルツアーから場末の劇場での芝居、そしてコマーシャルやら何やら、別に優劣つけるわけじゃないですけどピンからキリまで、いろいろ思い出してみるとあれこれ出てきて、我ながらなかなか面白かったです。

 

 兵隊、調理師、ビジネスマン、日本人観光客、外交官、レストラン経営者、鉱夫、花婿、運転手、警察官、ラブコメの主人公、父親、花婿、宇宙飛行士、9歳の子供、医者、エスキモー、元真珠採りダイバー、車夫、忍者、ジョン万次郎、天皇陛下の通訳、マレーシアの王様、ウェイター、株のディーラー、ヤクザ、馬、北ベトナム軍副官、お坊さん、紙飛行機大会のMC、ダチョウとカンガルーに追いかけられる人・・・。

 

 結構いろいろやってるんですね。

 最後の「ダチョウとカンガルーに追いかけられる人」っていうのはイギリスのコマーシャルでした。自分は見てないので残念ですが、なかなか面白い経験でした。

 

 しかし、中でもとりわけダントツに多いのは日本兵です。かつて日本と戦争したオーストラリアの土地で、日本人の男が俳優をやろうと思うとこれは避けては通れません。

 そのおかげでハリウッド映画にも、オーストラリアの有名な芝居にも出させて頂きましたから、文句を言うのは筋違いというもんですが、未だに残る複雑な歴史感情や、今さら消しようも無い捕虜虐待などの歴史的事件を受けて、そこに描かれる日本兵の姿は往々にして一面的で、ただただ冷酷で不可解な存在になりがちです。

 ずいぶん昔に出たある映画では、監督からもらった唯一の指示は、笑うな、歯を見せるなということだけだった、なんてこともあります。

 もっとも全ての作品ではありませんし、時代につれて変わりつつあることも確かです。でも日本を代表するものとして、納得のいかない内容や余りにひどいステレオタイプに直面したらやはり黙ってはいられず、できる限りの抵抗を試みます。

 説明に説明を重ねて変えてもらうこともあれば、出演依頼の時点で折り合いがつかず断った仕事もあります。現場でどうにも変更のしようが無い時は、無駄かもしれない、カットされるかもしれないということを百も承知で、一面的な人物像になんとか少しでも人間的な表情や感情の揺れ動きを与えようと、悪あがきをしたりもします。

 人と人とが殺し合う戦場で、一人や二人の力ではどうにもならない大きな力に流されるまま、平時の日常では思いもよらない行動をとらざるを得なかった一人一人を、平和な現在から振り返って責める資格など僕らにはありません。他者が描くステレオタイプを消し去ることなど非力な自分には所詮できませんが、演じるからには彼らの矛盾や痛みを自分の身に刻みこみながら、せめて役柄に血を通わせなければと肝に命じています。

 偉そうなことを言ってすみません。

 

 ステレオタイプの枠に苦労するのは、何も日本人だけじゃないんです。

 特定の人種やエスニシティ、宗教、セクシュアリティ、体型、障がい、年齢、性別と、数え上げたらきりが無いほどありとあらゆる対象にステレオタイプが存在します。いわゆる「メインストリーム」では無い俳優たちは、激しい競争の中で、それぞれその枠にうまく順応して仕事を得るか、その枠に反発して挑戦を試みるか、その都度その都度選択を迫られながら仕事をしています。それはつまり、大きな世界のどこに、どういう立ち位置で居場所を求められているのかを見極める作業です。でもそう考えてみるともちろん、誰も皆同じことをしながらそれぞれの人生を送っているんでしょうね。

 

 数年前、アカデミー賞にノミネートされた俳優が白人ばかりだというので物議をかもしたことがありました。ボイコット騒ぎにまで発展したあの一件、遠く離れたオーストラリアから、人種的にかなり多様なキャスティングが進んだアメリカでさえ未だにそういうことが起きるんだと、複雑な思いで眺めていました。

 "Color blind casting" 人種にとらわれないキャスティング、という言葉があります。アメリカやイギリスのエンターテーメント市場に比べると、オーストラリアのそれは残念ながら、固定観念を超えた役の割り振り方という点では全く立ち遅れています。

 あらゆる人種や言語が入り混じる多民族国家オーストラリアでは、少なくとも親のどちらかが海外生まれという人が半数以上を占めると言います。大都市だけでなく地方の町でさえ、非白人の姿はごく普通に見かけられるようになりました。先住民アボリジニの存在は言うまでもなく、70年代から多文化主義を掲げて移民の受け入れを進めてきたオーストラリアの今の姿は、もはや一部の人たちがしがみついているような、白人だけの世界ではありません。

 しかしオーストラリアのテレビや映画、舞台に出てくる顔ぶれは、多くの場合、現実とはかけ離れた白人ばかりの世界だったりします。近所のスーパーでは従業員の肌の色は様々なのに、スーパーのコマーシャルに出てくる人たちが全部白人、なんてこともざらにあります。僕が以前お父さん役で出させていただいた車のコマーシャルは、オーストラリア史上初めて、アジア人の家族がメインに据えられた作品だった、とあるキャスティングエージェントが教えてくれました。

 アメリカやイギリスで少しずつ起こりつつあるColor blind castingの流れをようやく汲んで、オーストラリアでも少しずつ少しずつ、状況は変わり始めています。しかしただでさえ規模の小さいオーストラリアのマーケットで、限られた役を得るのはもちろん大変で、非白人に割り振られる役は、そのまたさらに限られた数になっていきます。

 先ほど書いたような自分の居場所確認の作業は、そういう状況下で続いています。

 

 僕はいつからか、自分の今の存在は、パン屋のおにぎりなんじゃないかと思い始めました。

 自分の肌の色や顔立ちも、言葉の訛りも、生まれ育った文化も、いわゆるオーストラリアのマジョリティーとは違っています。ありとあらゆる種類のパンが並んだ陳列棚の一角に、突拍子もなく登場したおにぎりのような存在です。

 もちろんおにぎりそのものは、見てくれはともかく美味しいやつです。賞味期限は気になりますがまだしばらくは支障ありません。米も塩もいいやつを使ってます。

 でもパンを買いに来たお客さんたちは、いつの間にやら店頭に並んでいたおにぎりに、目を向けてくれるんでしょうか。なんでパン屋で米売ってんだよ、と不審に思う人もいるでしょうし、意外なもん売ってるな、と興味を持ってくれる人も、食べ慣れたパンが居並ぶ店内ではやっぱりパンに意識が向きがちです。

 アメリカのように、主力商品はあれどいろんな食材が並ぶスーパーでは、おにぎりが売られていても不思議ではありません。しかし現時点でのオーストラリアは、パン屋の主人が最近商売っ気を出して、いろんなアイデア商品を並べ始めたパン屋のような環境です。おにぎり目当てに店に来る常連客やリピーターが出てくるまでには、まだまだ時間がかかりそうに思います。

 純粋に、日本びいきのおにぎり好きのお客が来ることを願って店に並ぶか、それとも具やら味付けやらを工夫しながらパン屋に来たお客に売り込んでいくか。

 おにぎりとしてのプライドを保ちながら、パン屋におけるおにぎりの立ち位置も、なかなかこれはこれで難しいもんなんです。