侮るなかれ

 たまに、観客の前に立ちながら実はほとんどリハーサルもしておらず台詞も入っていないまま芝居をしている、という夢を見ます。

 なんとか体裁だけは取り繕おうと気ばかり焦り、いざ自分の番になると冷や汗ダラダラ、鉛でも飲んだように胸が詰まって一言も発することができず、観客や共演者の針のような視線を全身に受けている、というところで目が覚めます。その先どうするのかはたとえ夢でも考えたくないと、脳味噌のほうでも拒絶反応を示しているのかもしれません。

 

 舞台のリハーサルも最終段階に入ってきました。

 前回お話ししたように、今回は2本立て、そしてもう一本は泣く子も黙るシェークスピアです。もっとも僕の出番はそれほど多くはないですし台詞も少ないほうですが、何と言っても敵は17世紀の英語です。同じ言語ではあれ語彙も語順も違ってきたりするので、一語一句抜かりなく憶えていかなければ太刀打ちできません。

 

 2ヶ月かかって憶えた別の役は他の役者の手に渡り、新しい役を、自分の台詞だけを抜き出してまたブツブツ呪文のように唱える日々がしばらく続きました。しかし頑張った甲斐あって、シーンごとのリハーサルでは、何とか自分の台詞は一応もっともらしく言えるくらいにはなっていました。

 そして驚いたことに、シェークスピアの英語に苦労しているのは、キャストで唯一英語を母語としないノンネイティブの僕一人ではなく、英語が第一言語のオーストラリア人の俳優でさえ、台詞の意味がよく分からず何のこっちゃと頭を抱えているのでした。

  市販されているシェークスピアの戯曲にはもちろん注釈が付いていて、現在使われていない言葉や意味の違う表現などは説明してくれます。それでも無理、読み進む読解力も気力も時間もないという人、特に怖気付いた俳優やにわか勉強の学生には、「これさえ読めば大丈夫 バカでも分かるシェークスピア解読マニュアル!」みたいな本も各種売られているくらいです。最近では現代語訳をスマホですぐさま弾き出せるウェブサイトなどもあって、共演者の若い俳優がちらちらのぞいているのを目撃したりもしました。

 

 おまけにシェークスビアの戯曲というのは、ほとんど台詞しか書いてありません。ト書きでああしろこうしろとか、舞台の背景はこういう感じで、とかいうような、現代劇によくある作者の意向みたいな記述は省かれている上に、もちろんさすがシェークスピア先生、凡人の我々には読み解けないような謎や深いテーマなども奥行き深く隠されているようで、演出家や俳優がそれらを自由に読み取って展開させてくれるという懐の深さを持っています。これまで何百年も、世界各地で演じられてきた秘密というのは、こういう手強さと奥深さにあるのかもしれません。

 だから、話のテーマや登場人物の行動に関する解釈が、読み手によってかなり違ってきたりします。リハーサルでディスカッションをした際に、「え?マジ?これって、そういう話?」と、自分のとは全く違う受け取り方にびっくりしたことは1度や2度ではありません。演出家や俳優たちがあーだこーだと自論を述べながら擦り合わせをし、最終的に演出家がそれをまとめあげて形にする、というプロセスにかなり時間がかかりました。

 

 そんなこんなで、当初腰が引けていた僕も、シェークスピアに怖気付いているのは自分だけじゃないんだと分かると、かなり余裕が出てきました。小田島先生の日本語訳のお陰で話の筋はだいぶ分かってますし、必死で憶えた台詞は割とすんなり出てきます。

 リハーサル開始当初、隣で共演者が台詞を忘れて焦っているのを見ながら、

「なーんだ、俺、結構ちゃんとやれてるじゃん。シェークスピア、思ったほど怖くないじゃん」

 気が軽くなったような気がしました。

 侮るなかれ、という今回のお題は、その時の甘さを自戒する気持ちで浮かんだ言葉です。

 

 リハーサルが進むにつれ、なんだほとんど同じレベルじゃないかと軽く見ていた共演者たちは、話すスピードも動きも解釈も、倍速ターボでレベルを上げてきました。

 何せ彼らは中学高校の時分から、時には半ば強制的にシェークスピアを見せられ、演劇学校でも訓練を受け、何にもない僕とは下地が全く違います。自分の持ち味を十分活かしながら、シェークスピア英語で役に命を吹き込む作業を着々と進めているように見えます。

 彼らとの歴然たる差を意識すればするほど、萎縮していく自分をどうしようもありませんでした。自分の訛りや滑舌の悪さが、途端に気になり始めました。そして一挙手一投足が、シェークスピアの世界をぶち壊しにしてるんじゃないかとさえ疑い始めました。

 もう一つの現代語での芝居でも、台詞を上手く言えない自分に苛立っていました。たとえ台詞を一言一句、間違わずに言えなくても、英語のネイティブなら咄嗟に他の表現で言い換えることができます。しかし今の僕にはその訓練がまだまだ足りず、全く違う言葉が飛び出してしまった時に、パニックに陥らずにうまく修正できる余裕が無いのです。

 英語の世界で25年以上暮らしているのに、未だに英語も満足に話せないのか。

 この歳になるのに、まだこの程度のことで恥をさらしているのか。

 これまでに何度となく頭の中に響いてきた自責の言葉が息を吹き返し、やがて、ただ反射的に発するだけだった台詞は、底の浅さを露呈して、出てこなくなりました。

 

 さて、ここで問題です。

 こういう状況に陥った時、最も効果的な対応は次のうちどれでしょう。

 ①不甲斐ない自分を叱り飛ばし蹴り倒し、再起不能なまでに痛めつけた上でそれでも頑張れと叱咤激励する。

 ②自分は頑張ればなんでもできる、長所はこんなにあるじゃないかとポジティブ思考に無理やり切り替えて自分をほめそやす。

 ③ネガティブな考えや、よく見られたいと思うエゴは浮上するたびに受け流して、とりあえず目前のタスクに没頭する。

 

 自分自身との無益な攻防を、もう何十年も繰り返してきて、僕がやっとたどり着きつつある答えは、③です。

 自分に厳しいといえば聞こえはいいですが、僕の場合これまで厳しさは萎縮を生み、成長を阻む枷でしかなかったような気がします。自分への自信の無さは、自分をよく見せたいという見栄と表裏一体であり、無理に自分の長所を数え上げたところで所詮何の効果もありませんでした。度を超えたネガティブ思考とポジティブ思考の間で身動きが取れないまま、それでも無様にのろのろと歩みを進めてきて、いつの間にやらこんなオッサンになっていました。

 頭に浮かんでくる考えは、おならやゲップのようなもので、自分でどうこうできるもんではありません。抗ったところで体にも悪いし、とらわれることなくまあその時々で、ああそうですかと他人事みたいに対処すればいいんだと、この歳になって知りました。役にも立たない罵声やら声援やらはそれはそれとして、向かい来る球に集中するバッターのように、目先の仕事を一つ一つこなしていくしか自分にできることは無いんですよね。

 

 そう割り切って、恥を重ねながら、迷惑をかけながら、台詞も演技も自分にできるだけの努力をして、なんとか持ち直しつつあります。

 そして冷静になって周りを見回してみると、自分の至らなさや理想とのギャップに悩んでいるのは、自分一人では無いことが分かりました。俳優はみんな、程度の違いこそあれ、いろんな壁にそれぞれぶつかっていて、そんな情けないのは自分だけじゃないかと密かに思いながら、自分の仕事に向かっているのでした。

 幸いなことに、今回もいい共演者に恵まれました。お山の大将になりたがったり、エゴを振り回して問題を起こしたり、というような鼻つまみ者は一人もおらず、お互いを気遣いながらアンサンブルとして一緒に舞台を成功させようという、いい奴らばかりです。そういう仲間意識が生まれると、自意識のあれこれは鳴りを潜めて、目の前の舞台に集中しやすくなるようです。

 

 敬愛する女優、岸恵子さんがエッセイの中で、こんなことを書いておられました。正確な表現は覚えていませんが、

「俳優には、自分自身への信心がある」

 周りにどう言われても、自分にしかできない役がある。自分の声、自分の容姿だからこそ表現できるものがある。そしてそのことをバカみたいに信じ込んでいるからこそ、俳優なんて先も見えないヤクザな稼業に入れあげることができる、というようなことだったと思います。

 この一文を読んだ時、なんだか背中を押されたような気がしたのを覚えています。

 どんなに落ち込んでも、自信がなくて不安でも、難しい状況に直面しても、心の底のどこかから、「ま、大丈夫じゃない?できるんじゃない?」と自分を信じてやれる気持ちが湧き出てくる瞬間。誰の人生にも、一度や二度はあるはずで、何も俳優に限ったことじゃありません。そういう繰り返しで、みんな長いようで短い一生を送っているんでしょうね。

 

 侮るなかれ。

 侮るなかれ。

 

 俳優として、いつまでたっても自信が持てない自分ですが、行き詰った時の自分が立ち直る力も、侮るなかれと思っています。

 

 昨日プレビューを終え、今晩いよいよ初日を迎えます。

 よろしければ見にいらしてください。

 

http://www.sportforjove.com.au/theatre-play/measure-for-measure