どうっちゅうことあるかい!

 ご無沙汰しています。みなさんいかがお過ごしですか。

 いろいろなご報告ができるはずだったスペイン旅行ですが、思いもよらない出来事のために、たった2日で終わってしまいました。

 

 「お父さんが、さっき亡くなりました」

 

 カタールのドーハからマドリッドに向かう機中で、機内wifiを使ってメールをチェックしたら、まず飛び込んできたのが姉からの知らせでした。

 身体中の空気が一瞬にして抜け去ったような気がしました。

 その日の前日に腸閉塞を起こして病院に運ばれ、日本時間の翌朝、息を引き取ったということです。あまりに急な展開で、本人ですら予想だにしていなかったに違いありません。

 しかしこっちこそ、よりにもよって飛行機の中で親の最期を知らされるとは、まさに想定外のことでした。

 呆然としながらも、なんとかして早く日本に戻らなければ、とあれこれ頭を巡らせるのですが、その思いとは裏腹に身体はどんどん日本から物理的に引き離されていきます。マドリッドに降り立った後も預け入れ荷物はそのままバレンシアまで運ばれてしまうので、とりあえず最終目的地まで行くしかありません。今思い出しても怖気が振るうほどの無力感でした。

 

 マドリッドの空港から、実家に電話しました。

 覚悟は決めていたから、と母は思いの外しっかりしていました。弔問客やら親戚やら葬儀の段取りやらでごった返しているようで、泣いている場合じゃない、という気負いと決意が声音から感じ取れました。

 どのみちお通夜にも葬式にも間に合わないだろうから、無理して帰ってこなくていい。そっちでしっかり務めを果たしてきなさい。

 姉と同じことを母も言いました。

 務めというほど大それた用事でもなく、こんな一大事に比べたら屁でもないようなものですが、やはりどう頑張っても葬儀に間に合う飛行機は取れそうにありませんでした。

 雲の上を歩くような心もとない足取りでバレンシアの空港に降り立った後も、やっとたどり着いたといういつもの安堵感はなく、いつまでたっても覚めない夢の中にいるような白々した虚しさばかりが心にありました。

 

 父が末期の直腸癌と診断されたのは、一昨年の9月でした。

 82歳という自分の年齢を考えると、今さら無駄に抗癌剤治療で体力を衰えさせるようなことはしたくない。癌を患った友人や知り合いがこれまで何人も、強い薬の副作用で苦しみながら病み衰えていく姿を見てきたが、自分は自分の免疫力を信じて最期までやりたいことをやってから死にたい。

 父はそう宣言して、人工肛門の手術だけ済ませると、さっさと自宅に帰って元の生活に戻りました。言い出したら頑として意志を曲げない頑固者の親父らしいと、家族全員が納得する決断でした。

 高校の体育教師だった父は、自分の体力の維持に死ぬまで執念を燃やした人で、毎朝4時半に起きてストレッチや筋トレを続ける生活を続けていたせいか、病院にまでダンベルを持ち込んで周りの度肝を抜きました。姉の話では、手術の傷がまだふさがらない頃に腹筋運動をしようとして姉が必死に止めたんだそうです。

 退院後、母の看病と気遣いに支えられて、父は次第に以前の元気を取り戻していきました。

 もう何十年も続けているフランス語とスペイン語の勉強、そして定年後のフランス留学時代に病みつきになったペタンクという球技に再び精を出すうちに、気力も食欲も以前と変わらないほどにまでなりました。最初の診断で余命半年から1年と言われていたにもかかわらず、めきめき復活した父の元気を見て、もしかしたら癌なんてしばらくは鳴りを潜めて、このままぼちぼちやっていけるんじゃないかと周りも思い始めていたくらいです。

 亡くなる1週間前にたまたま僕が一時帰国をした時も、相変わらず元気でした。僕がスペインに行くと言うと、ガイドブックやら地図やら会話集やらをかき集めてきて、何度か訪れたスペインの話を楽しそうにしていました。僕が帰った後入れ違いに、長野に嫁いでいる姉が家族を連れて帰省した時も、人が集まる時によく作る自慢のパエリヤを大鍋いっぱい作って振舞ったんだそうです。全くいつもと変わらない、いつもの父の姿でした。

 帰り際空港に向かう時はいつも、父が車で最寄りの駅まで送ってくれました。本当にいつも通り、じゃ元気で頑張って、とお互い声をかけ、握手をして車を降り、Uターンする父の車に手を振って別れたのも全くいつもと同じでした。

 いつかはこれが最後になる日が来る、という予感は毎回心のどこかにあったものの、結局何の準備もできていなかったんだなと、最後の姿を思い出すたびにつくづく思い知らされるのです。

 

 僕は見知らぬ街に来ると必ず、地図もろくに見ずにあてずっぽうに歩きまわります。

 路地や裏道が大好きで、迷子になったらなったでそれも心楽しく、知らない場所でしか出会えない驚きや発見に我を忘れるのが旅の醍醐味だと思う性分です。

 バレンシアはその点、うってつけの街でした。思いがけないところに、何やら興味をそそる裏道がヒョイと現れて、また別の路地へと導いてくれます。

 映画祭のイベントを抜け出して、市の中心部からかなり離れた名前も知らない街の一角をさまよいました。歩いても歩いても、まるで迷路の中に迷い込んだかのように続いていく裏道に、人の暮らしの気配がさりげなく見え隠れしています。そのうち猛烈な人懐かしさと共に、ここはいったいどこなんだろう、こんなところで俺は何してるんだろうという不可解さが心に広がっていきました。

 そして、こういう放浪癖は、実は親父譲りなのかもしれない、と思い至ったのです。

 定年後、母を日本に置いてきぼりにしてフランスに行く、と言い出した時も、母に言わせると実は行き先も決めずに放浪の旅をするつもりだったようです。空港で母に大泣きされて改心し、きちんと留学先を決めて勉強することに落ち着いたそうですが、行き当たりばったり、あえて他人が歩かない道を選んでほっつき歩く性癖は、今になって思えば僕と同じです。

 他人から強制されたり、偉そうな態度に出くわした時、無性に反発したがるへそ曲がりなところも、全く同じです。これが世間一般のやり方だから、と当然のごとく押し付けられると、従う気持ちは即座に消え、あえて違うことをしたくなるあまのじゃくが、父にも僕にも住んでいるようです。

 まだ僕が子供の頃、父は国勢調査の書類を、NHK講座で習いたてのハングル文字で書いて出したことがあります。過去に在日韓国人の生徒を受け持ち、彼らの受けた差別に憤っていたからかもしれません。出来上がった書類を僕に見せて、「差別したかったらしたらええねん」と自慢気に笑った顔を今でも思い出します。

 そんな父の口癖は、「どうっちゅうことあるかい!」でした。

 敬愛する宮本輝さんの小説「流転の海」シリーズの主人公、松坂熊吾の台詞に「何がどうなろうとも、どうということはありゃせん」というのがあります。うちの父はもちろんあの松坂熊吾ほど豪放磊落な大人物ではありませんでしたが、それでもどこか共通するものを感じました。

 父は世間体とかお体裁とか、世の中の「常識」とか、それにまつわる諸々のプレッシャーとかに対しては、常に「どうっちゅうことあるかい!」で済ましてきた人でした。父には父なりに思い悩むこともあったはずですし、気分屋が過ぎて母をほとほと困らせたものですが、しかしそういう変わり者の父だったからこそ、息子の自分がこんな好き勝手な生き方をさせてもらえているのでしょう。

 大学を出て就職をせずアメリカに行くと言い出した時も、オーストラリアで定職を捨てて俳優になると宣言した時も、父は反対しませんでした。先行き不安な俳優業を20年近く、危なっかしくも続けている息子のことを、密かに自慢に思ってもくれていたようです。

 その思いに報いるだけの生き方を、自分はできているんだろうか。

 風が冷たくなってきた夕暮れの路地裏を歩きながら、考えました。

 多分できていないような気がします。申し訳ないけど、自分でも不甲斐ないほど頼りなくて、とてもご期待に添えるような努力はできてません。父のように「どうっちゅうことあるかい」と開き直れるほどの図太さは、この歳になっても持てずにいます。

 こういう踏み込んだ会話は父も自分もお互い照れ臭くて、結局する機会もないまま時が過ぎ、父は逝ってしまいました。口には出さずとも、ずっと見守り、応援してくれていたという確信だけがこちらの胸に残っています。

 知る人もいない全くの異郷でたったひとり、裏道を辿って歩きながら、父がいなくなった今になって、これまでになく父の存在を強く感じていました。

 夕焼けが身震いするほど綺麗でした。

 

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 日本に戻ったのは、葬儀が済んだ次の日でした。

 ごく身内だけでひっそりと、というのが生前からの父の言いつけでしたが、ごく限られた人にしか連絡しなかったにもかかわらず、ニュースは瞬く間に広まって、かつての同僚や教え子、ペタンク仲間などが一斉に集まって別れを惜しんでくれました。結構外面が良かったみたいです。

 父の意向を尊重して、世間一般の定番を無視した無宗教の式になりました。お通夜ではこれも父の遺言通り、参列者一人一人が父の思い出話を一言ずつ語ることになり、義理やらしがらみやらで来ている人がいない分、実に心のこもった別れができたんだそうです。父が想定していた葬式よりは規模が大きくはなりましたが、なんとも父らしい、ユニークなものになったようでした。

 そこに自分がいなかったのが残念ですが、言っても詮無いことです。長男のくせに喪主にもなれず、骨も拾えず、申し訳ない気持ちで戻った僕に、薄紫のリボンのかかった写真の中から父は、

 「どうっちゅうことあるかい!」

 と、ニヤニヤ笑いながらどやしつけているような気がしました。