続・もしかしたら

 今から13、4年前、シドニーの日本語情報誌「日豪プレス」で1年間、エッセイの連載をさせていただいたことがあります。「オーストラリアで俳優を目指して」というなんとも気恥ずかしいタイトルが付いていました。

 その最終回の2003年3月号で、先の見えない役者稼業について、僕はこんなことを書いています。

 

「自分の経験から断言できる。悲観論は割に合わない。だめかもしれないという気後れは、自分でなんとか断ち切るしかない。そしてそれは逆に言うと、どんな時も、もしかしたら、と希望を持てる図太さがある限りやっていけるということだ」

 

 まあ、なんとも偉そうなことをぬけぬけと言ってのけたもんです。若気の至りとはよく言いますが、あの時すでに僕は30をいくつか超えており、先行きのことを考えもせず役者の道に飛び込んでまだ間がない頃でした。気負いがあったのか、夢が大きかったのか、はたまた単に物を知らなかったのか。恐らくその全てがごた混ぜになっていたのでしょうが、あれから10数年、どうにかこうにか俳優を続けてきた今、僕が口にする「もしかしたら」は、決してあの時ほど単純な希望に満ちているわけではなく、しかし闘志が萎えてしまったわけでもなく、もっと複雑で謙虚なものになっているような気がします。

 ダテに年は食っちゃいません。

 

 16年余り、テレビや映画、ラジオ、そして舞台で仕事をさせてもらってきました。言葉もおぼつかない外国の地で、あっちぶつかり、こっちで転びしながら、どうにかこうにか続けてきた生業です。絶好調の時もあれば、道を誤ったと途方に暮れる時もあり、順風満帆とは言えないものの、なんとか不思議に食いっぱぐれもせず今日までやってこられたのは、なんというかまあ、奇跡みたいなもんです。

 

 「今度のオーディションはダメだったけど、もしかしたら次で受かるかもしれない」

 「近々オーストラリアで撮影予定のハリウッド映画で、もしかしたら俺みたいなアジア人の俳優を探してるかもしれない」

 「このイベントに顔を出したら、もしかしたらすごいコネが見つかるかもしれない」

 

 そうやって、その都度その都度期待を裏切られながら、それでもやはり、もしかしたら、の呪文を唱えずには今までやってこれませんでした。

 

 でも、いろいろな経験を重ねて思い知ったことの一つは、この世界、もしかしたら、と漠然と夢見る俳優もしくは俳優志望者は、それこそ佃煮にするほどいるということです。向こうの「もしかしたら」もこっちの「もしかしたら」も、運頼みである以上、優劣のつけようもありません。

 もちろん、予定の立てようもないこの世界で生き残っていくためにはそういう楽天性は絶対に欠かせませんし、そこから力を得て何かを生み出すこともできるはずです。しかし、手前勝手な期待で胸を膨らませるだけの、口先三寸のバクチ打ちのような「もしかしたら」では、それこそ割に合わないんだということを、今までの貴重な経験から身をもって学びました。

 

 何度もNOを突きつけられ、そびえ立つ高い壁に阻まれながらも進むうちに、ただ漠然と夢見ていた「もしかしたら」の世界はどんどん現実味を失っていきます。やっぱり自分には無理なんだ、さっさと足を洗おうと切り替えられる決断力のある人はともかく、僕みたいにこの世界に未練タラタラの無鉄砲人間は、時折果てしなく落ち込みながらも、なんとか軌道修正を図ります。

 

 自分が本当に夢見ていることは何なのか。何がしたくてこの世界に入ったのか。

 見栄とかエゴとか世間体とかでいつしか出来上がってしまった理想像じゃなく、現実的なあれこれもしっかり見つめた上での自分自身が、本当に満足できる成功って何なのか。

 それに近づくために、具体的に今、何をしなきゃいけないのか。

 そして実際、お前は「もしかしたら」にふさわしいほどの努力をしているのか。

 

 結局この最後の質問にたどりつき、余りにも怠けもんの自分を恥じ入っては改心を誓うのですが、まあほんとに恥ずかしながら遅々たる歩みです。日々訓練と努力を重ね、舞台や映像でその成果を燦然と輝かせている先輩後輩俳優の皆々様を拝見すると、尊敬の余り身の縮む思いがするほどの体たらくではあります。

 

 それでもやっぱり、「もしかしたら」の火種は、いつでも胸の奥の方で、小さく小さくゆらめいているような気がします。ガス湯沸かし器の種火のように、いつでもスイッチ一つで沸騰点に持っていけるように、これだけは絶やさないでおこうと思っています。そして今から15年後にこの文章を読み返したとき、こんなチンケな言い草を鼻で笑えるほど、「もしかしたら」の炎をガンガン燃やしてるジジイになれたらいいなと思うんですよね。